追い込まれると俳句の言葉が浮かぶのか?

なかば

2014年01月30日 20:54

 今月は、読書の大半が、WordPressとかWebマーケティングみたいなものばかりで、俳句集とか俳句評論、あるいは短歌・和歌の関連書に全く触れることがなかった。加えて、NHKの短歌・俳句も、この週末にまとめて観る有様で、それが、新宿御苑に行っても何も浮かばない原因なのかもしれない。

 「お前は、そんなレベルではないだろ!とにかく、五七五と季語と切字でじゃんじゃん作らないと」と言われたら確かにその通りだが、それでも、言葉、特に韻文の世界に一定の時間触れている必要があると思う。

 西行論については、白洲正子小林秀雄吉本隆明などの評論に触れ、西行の生き様、待賢門院璋子に対する長きにわたる憧憬などにかろうじて触れることができたのだが、俳句に限らず、和歌の世界に触れることも大事であろう。単に、自然に触れているだけで、言葉がほとばしるほどの才能はないのだから。

 それに、あるまじき態度かもしれないが、正直、今の自然環境は寒い!新宿御苑も、先週行った津久井湖も、10分もじっとしていると冷えてくる。こういう季節は、人事句などで寒さを凌ぐしかないのか?あるいは、高野素十などの句集に触れながら、せめてもの慰みに冬の写真でも眺めているべきか?

 気がつけば、次の結社誌の〆切は来月10日。今回までは、なんとか昨年のストックで凌げそうだが、今から積み上げないと、早晩行き詰まりが来る。

 ということで、追い込まれると俳句になっていない言葉の断片が、通勤途中でも、少しずつ形になって来るような気がしている。そこで、さらに爪を伸ばして、2月1日締め切りの、通信添削も出すことにして、すでに添削料を振り込んだ。こうして自分を追い込むのが必要。添削によりご指導いただくのが本来の趣旨だが、選句という一連の流れを体験してみるというのが今回の狙いである。

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